2025/10/21 21:00
平成の時代にその名が生まれ、世を騒がせ続けている「バイトテロ」。
自身が務める飲食店などで不適切な行為を故意に行い、それをカメラで記録し拡散するという一連の行為です。
携帯電話からスマートフォンへと世界が移行し、誰もが高性能なカメラと、世界と繋がる手段を手に入れた頃から、この現象は顕在化しました。
これは、かつて仲間内の「悪ふざけ」で終わっていた行為が、一瞬にして世界中に露出し、永久に残り続ける「デジタルタトゥー」となった時代を象徴しています。
なぜ、若者たちはこのような行為に走ってしまうのでしょうか。
そして、なぜその「証拠」を自ら残し、拡散してしまうのでしょうか。
「いいね!」という名の承認欲求と、欠如した想像力
検索結果からも読み取れるように、バイトテロの背景には複数の要因が指摘されています。
その最も大きなものが、「目立ちたい」「多くの人に見てもらいたい」という、歪んだ承認欲求です。
スマートフォンとSNSの普及は、誰もが「発信者」になれる時代を創りました。
そこでは、他者からの「いいね!」や注目こそが自己肯定感を満たす燃料となり得ます。
組織や社会規範を軽視し、個人の欲求を優先する心理が働き、「面白そう」「バズりそう」という安易な動機が、不適切行為という一線を簡単に超えさせてしまうのです。
そして、その行為を動画や写真という形で記録し、SNSに投稿する行為は、この承認欲求を満たすための手段そのものです。
しかし、彼らには「ネットリテラシーの低さ」や「倫理観・道徳観の欠如」が指摘されています。
つまり、カメラを通して映し出された映像が、瞬時にどれほどの速さで拡散し、企業のブランドや、そこに働く人々の生活、そして自分自身の未来に、どれほど取り返しのつかない損害を与えるか、という想像力が極端に欠如しているのです。
彼らにとって、スマートフォンの画面は、現実社会と切り離された、刹那的な「遊び場」でしかないのかもしれません。
損害賠償請求という「現実」と、繰り返される轍
バイトテロという言葉が生まれた2013年頃から、状況はエスカレートし続けています。
昨今では、企業側が加害者に対して数千万単位の損害賠償請求を行うケースや、刑事告訴に発展する事例も出てきました。実際に、店が閉店に追い込まれた結果、高額な賠償を請求されるという、現実の厳しさを突きつけられる事態も発生しています。
これは、かつて「軽い悪ふざけ」で済んだかもしれない行為が、デジタルな証拠となり、法的な制裁を受ける時代になったことを意味します。
にもかかわらず、なぜ若者たちは同じ轍を踏んでしまうのでしょうか。高額な損害賠償や社会的制裁という事実を知りながらも、不適切行為の投稿は後を絶ちません。
崩れゆく「性善説」の先にあるもの
日本社会は長らく、互いを敬い、波風を立てず、規律をもって過ごすという「性善説」を前提とした秩序の中で成り立ってきました。しかし、バイトテロという現象は、この前提が崩れつつある現状を痛々しいまでに露呈しています。
「誰にも見られていないから大丈夫」という考えは、もはや通用しません。
高性能なカメラが常に向けられている時代です。
そして、一度インターネットに流出した情報は、投稿を削除しても、半永久的にデジタルタトゥーとして残り続けます。
もし、互いの倫理観を信じられず、「監視」と「制裁」によってしか秩序が保てない世界が待っているとしたら、それは非常に息苦しい未来です。
バイトテロが問いかけているのは、単なる若者のモラル低下ではありません。
それは、誰もがカメラを持ち、発信力を手に入れた社会で、個々人がいかに他者を思いやり、想像力を働かせ、責任ある行動を取れるかという、新しい時代の「公共の精神」そのものなのかもしれません。
この問いに対する答えが見つからない限り、私たちの社会は、常にカメラが暴くリスクと、崩壊した倫理観の狭間で揺れ続けることになるでしょう。