2025/08/26 09:00

いや~、まだまだ暑いですね。


私は写真屋として毎日たくさんの写真を見てきました。

8月も終わりに近づいてくると、カメラに収めた夏の思い出をプリントしようと

お客様方がお店を訪れます。


楽しそうな旅行、海水浴、お祭り、そんな楽しい思い出の一方で、

子供が自由研究に使う写真をあわててプリントしに来るお母さんもいました。

バタバタと忙しい一日を終え店をあとにする、そんな毎日でした。

 

あの日は仕事終わりに懐かしい友人たちと飲みに行く約束でした。

ジョッキを打ち鳴らしビールで乾杯!

喉を潤しながら学生時代の話で盛り上がる。

そろそろお開きかなと思っていたところに不意に声がかかる。

「そういえば写真屋なんかやってると・・・あったりするの?心霊写真」

 

今回のブログは少し涼しいお話になりそうです。

 

 

というわけで、皆さんは心霊写真お好きですか?

かつてはテレビの心霊特集で、背筋が凍るような写真にゾクゾクしたものです。

しかし、写真屋という仕事を始めてから、その楽しみが半減してしまいました。

なぜなら心霊写真が簡単に作れてしまうことを知ってしまったからです。


心霊写真のすべてがインチキというわけではありません・・・が、

職業柄そういった写真を発見した際には、まず撮影からプリントまでの流れの中に原因がないかを疑います。

説明がつくものもあれば、そうでないものもありましたが、この一連の流れの中で作り方を知ってしまったのです。


 

カメラが作り出す「偶然」の怪異

フィルムカメラが全盛だった頃、心霊写真が生まれるのには技術的な偶然が関わっていました。


例えば、多重露光

これは一枚のフィルムに複数の画像を重ねて写す機能ですが、使い方がわからず意図せず使ってしまったり、あるいはフィルムの巻き上げ不良で結果的に二重に撮影されたりすることがありました。

私も、うっかり使用済みフィルムを再装填してしまったことがあります。

現像してみると、見覚えのない人物が、自分の撮った風景にぼんやりと重なっていました。

それはまるで過去の誰かの人生と、今の自分の時間が、一枚の写真の上で交差しているかのようでした。


当時はゾッとしましたが、今となってはフィルムカメラ特有の偶然が引き起こした現象だと冷静に分析できます。


 

デジタルが暴く「作為」の怪異

デジタル時代になると、この「偶然」は「作為」へと変わりました。

画像編集ソフトを使えば、心霊写真は簡単に作れます。

背景のガラス戸に別で撮ったおじさんの顔をレイヤーで重ねて透過させるそんな作業を何気なく試してみると、驚くほどそれっぽく見える写真ができてしまうのです。

恐怖を煽る演出を盛り込み、ブレやノイズを加えれば、そこに写っているのが単なる人間の好奇心や悪意だとしても、見る人は真実だと信じてしまう。

心霊写真の別の側面を知ってしまった私は、テレビでどんな写真を見ても「作り方」を冷静に考えてしまいます。

純粋な恐怖を感じられなくなったのは、少し寂しいことかもしれません。


 

それでも、信じたい「もう一つの真実」

それでも、私には拭いきれない疑問があります。

なぜ、心霊エピソードに出てくる霊は、怖いものばかりなのでしょうか?

大切な人を亡くした経験から、私はこう考えるようになりました。


もし死後の世界があって、大切な故人が戻ってくるなら、それは決して私たちを怖がらせるためではないはずです。

家族のもとへ帰ってくる魂は、きっと穏やかで懐かしい存在だろう。

生前は優しかった人が、死後に突然恐ろしい存在に変わるとは思えません。

心霊写真に写る「恨めしそうな顔」も、どこか人間が作り出したイメージのように感じてしまいます。

 

もし本当に霊がいたとしたら!?

きっとそこには怖がらせるためではなく、好奇心からレンズを覗き込んでくる、

どこか楽しそうな表情の霊が写るのかもしれません。

もしかしたら、そんな心温まる心霊写真の方が、私たちは「もしかしたら本当にいるのかもしれない」と、

より強く感じられるのではないでしょうか。

偶然が生んだ奇跡、作為が暴く真実、そして信じたい心の物語。

私の胸にはまだ、ほんの少しのゾクゾクが残っています。

 

人間こそが怪異

昭和の時代に見た心霊番組で、こんなエピソードがありました。

煙を手前ボケにして洋館を撮影した写真を霊能者に鑑定させる企画です。

霊能者は霊的な力を感じると鑑定しましたが、番組の最後に「実はテレビ側が用意した写真だった」と

種明かしをし、霊能者を「インチキ」呼ばわりしていました。

しかしこのエピソードには、どこか割り切れないものを感じます。

その写真はテレビ側が作ったトリックでしたが、

本当に霊的な存在の関与が100%なかったと言い切れるのでしょうか?

写っていたのが煙だけだったという事実は誰も証明できませんし、その逆も然りです。

写真という媒体に写ったものが、必ずしも目に見えるものだけではないかもしれない。

そんな風に考えると心霊写真の持つ不思議な魅力は、簡単には否定できないのかもしれません。

皆さんは心霊写真に「偶然」や「作為」を超えた何かを感じますか?

 

まとめ

心霊写真の真偽を証明する術はありません。

「力」のある方々に鑑定してもらい、その結果を信じるしかないのです。

しかしながらその裏側には、科学的な偶然や、人間の作為が含まれている可能性があることを

私は写真屋の経験から知ってしまいました。


これでも私は心霊写真の存在を信じています。

ただ、それが恐怖の対象として見られるのに違和感を感じてしまうのは、

身近な人との別れを経験したからかもしれません。


ふと想像するんです。


自分が心霊として写真に写るときはどんな存在だろうかと。

みんなと笑いあえてたらいいなと思うのは非現実的ですかね。