2024/07/02 09:00

202473日は新しい紙幣が発行される日です。

新千円札は北里柴三郎、新五千円札は津田梅子、新一万円札は渋沢栄一の肖像が印刷されたものとなります。

今回はこのうちの渋沢栄一と写真についてまとめてみました。


 

1 新一万円札の渋沢栄一


「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一は、その生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援や民間外交に尽力しました。

特に、日本初の銀行である第一国立銀行や、東京商法会議所、東京証券取引所などの企業や団体を設立・経営するなど、民間人の立場から経済による近代的な国づくりを目指しました。

新一万円札の肖像は、国立印刷局によると70歳の古希のお祝い時に撮影された写真等複数枚を参考として描かれたものとのことです。

ただし、各方面で活躍した躍動感や若々しさを表現するため、60歳代前半にリメイクされているということで、1枚の写真をもとにしたものではないのですね。

 


2 渋沢栄一のもっとも古い写真


渋沢栄一は1840(天保11)年に、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)の農家に生まれました。

幼い頃から家業である藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、父や従兄から学問の手ほどきも受け、論語など四書五経を学びました。

1863(文久3)年には幕府に不満を募らせ討幕運動に関わるも断念。故郷を出た栄一は、かねてから知遇を得ていた一橋家の家臣平岡円四郎のはからいで一橋家に仕官します。

主君である一橋慶喜が徳川15代将軍となり、1867(慶応3)年、慶喜の弟・徳川昭武に従いフランスのパリ万博に随行します。

この時の渡欧で先進的な技術や産業を見聞し、近代的な社会制度を知った事が、その後の栄一の人生に大きな影響を与えました。

渋沢栄一のもっとも古い写真は、このフランス・パリにいたときに撮影されたものです。

個人としての肖像写真は、紋付羽織袴で右手に被り笠を持ち、太刀を杖のように床面から立たせて左手を乗せ、髷を結っています(「渋沢栄一伝記資料」別巻第10 81)。

また、徳川昭武を中心とした、随行員の集合写真にも髷姿の栄一が写っています(同82)。

渋沢栄一の写真は多く残っていますが、髷姿はこの二枚だけのようです。

 


3 洋装姿を写真に


その後、フランスで撮影された写真は二枚残っていますが、その時には栄一は既に髷を切っています。

一枚は上半身の肖像写真で、髷を切った後の髪型がよくわかる写真です(同86)。

もう一枚の全身を写した写真は、シルクハットを被っているため髪型は良くわかりませんが、フロックコートに蝶ネクタイ姿で洋靴を履いています(同98)。

以前の写真では被り笠を持っていた右手は西洋の椅子に添えられ、太刀を持っていた左手にはステッキを持っています。

これらの写真が撮影された日の違いは、おそらく12年の間ではないかと思いますが、まるで別人のようです。


 

5 「渋沢栄一伝記資料」


これらの写真は、栄一の業績をまとめた「渋沢栄一伝記資料」(渋沢青淵記念財団竜門社編、渋沢栄一伝記資料刊行会刊)に掲載されています。

同資料は本編全58巻、別巻全10巻となり、第1巻は1944(昭和19)年に刊行し、1971(昭和46)年に完了したものですが、その別巻の最終巻である10巻が写真をまとめたものとなっています。

栄一はその稀有な業績と、生涯が91年と長命であったことから、多くの写真が残っています。

別巻10巻は、約300ページに及びますが、「渋沢栄一フォトグラフ」として公益財団法人渋沢栄一記念財団がWEBでも公開しています。


 

4渋沢栄一と紙幣


明治維新後にヨーロッパから帰国した栄一は、一時期大蔵省に出仕していましたが、ほどなく辞職し日本初の銀行となる第一国立銀行を創設します。

第一国立銀行は民間資本ながら紙幣を発行しました。「渋沢栄一伝記資料」別巻10にはその紙幣の写真も納められています。

第一国立銀行の紙幣は、その後日本銀行が創設されたことによりその役目を終えますが、紙幣をつくる側だった渋沢栄一が、紙幣の顔になることはとても象徴的ですね。


 

6 渋沢栄一生家跡「中の家」に建つ銅像


埼玉県深谷市の渋沢栄一の生家は「中の家(なかんち)」と言われ、1985(明治28)年に建てられた主屋が現存しています。

現在の「中の家」の敷地内には若き日の渋沢栄一という銅像が建てられています。

この銅像の姿は、髷を結い紋付羽織袴で、右手に被り笠を持ち、左手は太刀を杖のようにした姿をしています。

プレートには「若き日の栄一 Eiichi in Paris 1867」と刻まれています。


栄一の写真のうちのもっとも古い写真から製作したもので、建てられたのは1983年です。

この写真をパリで撮影したとき栄一は、数年後には自分が紙幣を作ることになり、100年後にはこの写真で銅像が建てられ、150年後には自分が紙幣の顔になるなど、想像していたでしょうか。

一枚の写真から、後世にそのひとの業績を伝えることができる。あらためて、写真は素晴らしいですね。

 


栄一の時代にはできなかったデジタル化によって、写真を残す手段や可能性は広がっています。

大切な写真はぜひ、おもいで写真デジタイズ(オモデジ)でデータにして残しましょう。